”自己犠牲”はゴミ!人は「他人の幸せ」よりも「自分の幸せ」を考えるべき

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僕が理解しがたい日本の風習の1つに「自己犠牲の精神が美徳」がある。この国では「自分の幸せより他人の幸せを願うのが尊い」と考える人が多い。

「他人が幸せになれば、巡り巡って自分に幸せが舞い込んでくる」という考え方なのだろうが、僕はそうは思わない。

僕は自分の母親を見て「自分が幸せじゃなければ、他人の幸せを願う余裕はない」ことを悟った。

 たとえ親でも自分が幸せじゃないと、子供の幸せを最優先に考えられない

今でこそ東京で暮らす僕の心配ばかりする子煩悩な母親だが、僕が小学生時代に離婚してからの母親は、男を連れ込んでは別れて…を繰り返し、常に情緒不安定で子供に関心を向ける余裕がなかった。

僕はそんな子供時代の経験から親は親である前に1人の人間なのだと思った。「子供の幸せが親の幸せ」や「子供を最優先に考えるべき」など子供を重んじる考え方が世間のスタンダードだが、たとえ親でも自分が幸せじゃないと、子供の幸せを最優先に考えられない。

再婚してから子供最優先になっていった母親を見て、この考えは確信へと変わっていくことになる。

 

他人の幸せを願えるのは、自分が幸せだと思う人だけ

子供の幸せを自分事のように喜べるのは、自分が満たされている人だけだ。

人はまず自分が幸せにならないと他人を幸せにしようなんて思えない。

幸せはシェアするものであり、シェアする幸せがなければ他人の幸せを願う資格なんてないのだ。

 

親と子の関係でもこんな感じなのに、他人の幸せを優先するのは理に適っていない。

自己犠牲の元で成り立つ幸せなんて存在せず、誰かの犠牲によって作られた幸せは必ずどこかで破綻するものだ。

まずは自分の幸せを追い求めた方が、結果的に他人を幸せにできる。

 

自立していない人ほど、自分を犠牲にしたがる

自己犠牲的な考え方をしやすいタイプの1つに「自立していない人」が挙げられる。

自分の足で歩かない人間に限って、「あの人が幸せなら…」と考えるものだ。

自分の道を自分で切り開くのが怖いor面倒くさいために、主役のサポート役に回って「あの人のために頑張る自分、えらい」と自己陶酔しながら、あわよくば美味しい思いをしようとする。

 

「誰かを支える」という大義名分を得れば、努力する必要がなくなると思ってないだろうか?

だが現実は自分の足で歩けない人間が他人を支えるなんて不可能だ。誰かを支えたいと思うのなら、1人で歩けるようにならなきゃ。

1人で歩けない人間が誰かを支えようとするのは、ただ依存しているだけなんだ。

 

まとめ

僕は自分の子供時代の経験から、自己犠牲の精神を否定している。

幸せはシェアするものであり、シェアする幸せがなければ他人の幸せを願う資格なんてない。

「あの人が幸せなら…」と考える時点で、自分が幸せじゃない証拠でありそんな人間が誰かを支えるなんてナンセンスであり、ただの依存だよ。

誰かを幸せにしたいなら、自分の幸せを追い求めるべきなのだ。